変形性股関節症患者のひとりごと 天は自ら助くる者を助く
先週の金曜日、2回目の深圧説明会&体験会を開催しました。
ご参加いただきました方々に御礼申し上げます。
10月は11日(木)と27日(土)での開催を予定しています。
詳しくは、以下のお知らせをご覧ください。
こちらより ☞ 深圧体験会
無料の体験会ですので、どうぞお気軽にお申し込みください!
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「変形性股関節症」と診断されて以来、この障害に翻弄されてきた自分ですが、そもそも自分の人生においてこの障害を体験してきたことにどんな意味があったのだろうか?と思い返すことがあります。
それは・・・
後になってから思えば、当時の状態で受ける必要はなかったかもしれない股関節の自骨手術(臼蓋回転骨切り術)。
体験談その他、本ブログでもこの手術体験については、ネガティブに語ることばかりでした。
ですが、手術を受けたこと及びその後の苦闘を通じて、
自分の身は自分で守る
という基本的な人生観を学びました。
ひねくれ者で他責思考の強かった身としては、そんな当たり前のことを頭ではわかっていても、現実には自らの問題として受け止めることができていませんでした。
「いま」の自分があるのは自分がすべて決めてきたことの結果であり、ヒトのせいではありません。
当たり前ですね。
手術を受けるという決断について言えば、医師の診断と進言に頼ることしかできなかったため、受けざるをえなかったというのが正直なところですが、最終的にそれを決めたのは自分自身。
手術をするという決断はまだしも、術後の生活に無理があったのは事実。
かなりの大手術をしたのであり、そもそも完全に元通りになるはずもないのに、医師の「ほぼ元通りの生活ができる」という言葉を鵜呑みにし、いや誇大解釈していました。
筋トレはガンガンにやりましたし、(脚長差の問題が生じたものの)日常生活ではほぼ問題ない生活ができるようになったことで、自分はまた元の健常者に戻れたのだという錯覚をしていました。
「戻れるはず」と思い込んでいたので、調子が悪いときは自分のリハビリ努力が足りないせいにしていました。
視方を変えれば、医師による将来へのお墨付きがあったことを信頼していたのだとも言えますが、実際には、医師の大丈夫という言葉に甘んじ、もし何かあっても何とかしてくれるだろう、何とかなるだろうくらいに考えていたように思います。
当時はまだ20代で若かったし、無理をしても何とかなってしまっていたことも災いでした。
自分の身は自分で守る、なんていう意識は希薄。
自分の身体のことを軽く考えていましたね。
わたしの場合、先天性の股関節脱臼、臼蓋形成不全が原因となって股関節障害を発症したのであり、いわば生まれ持った宿命です。
誰をも責めに帰すことなんてできないし、する必要もないのですが、どこか他人事のようで自分の問題として受け止めることができていない自分がいたようにも思います。
ですが、手術を経て、リハビリ努力をし、それでも状態が悪化して酷い痛みに苦しんでいたのは自分であり、最終的に人工股関節にはしたくない(手術はもうしたくない)という決断をしたのも自分です。
自分の身体に対する“自責思考”が芽生えたのかもしれませんし、深圧療法にかけてみようと決意したのでした。
そんなこんなで「いま」があるのですが、振り返ってみると、身体のことに限らず、人生全般において他責思考だった自分に本当に気づいて変わろうともがいてきた道と、股関節の症状が改善していった道は重なります。
短期集中的な深圧治療によって一時の酷い痛みからは解放され、何とか大きな支障なく日常生活ができるようになった後、自分が求めている現実の生活(QOL)、とりわけ仕事生活との葛藤もあり、仕事と体調管理のバランス(優先順位)を上手くとることができない日々が続きました。
つまり、心身のストレスケアがうまくできずにいたことが、その後の更なる改善に時間を要し(好不調の波が大きかった)、もがき苦しんた理由の一つ。
ですが、そういう道をたどった上で「いま」の自分があるのですから、そう思うと、やはり全ての出来事が「いま」につながる必然でした。
今そう思えるということは、「いま」を受け入れ、「いま」を幸せに感じているから。
これは自分への教訓、戒めでもありますが、
まずは現実の自分の状態、痛みにしろ機能不全にしろ、自分自身の問題としてすべて受け止めること(仮に自分以外のところに原因があったところで最後は自分のこととして全てを受け入れる)。
その上で、自分が変わること。
そして、ヒトの力を借りつつも自ら絶対に良くなるという意志をもち、いいと思えることは何でもやってみるくらいの柔軟性を持ち続けること。
実際、大病から復活した方の実例などを聞いていると共通する要素です。
心身相関。
「心身一元論」(心と体には相関関係があること)は古代ギリシャの時代から言われていることであり、これに異論を唱える人は少ないでしょう。
心が病んでいると、身体も病むし、その逆もあり。
自分の体験からも、その通りだと心底思います。
この身体は誰の身体なんだ?
自分はどうなりたいんだ?
「天は自ら助くる者を助く」
余談ですが、手術で入院していたときのこと。
同じ入院患者フロアに、車いすのおばあさんがいました。
入院していた病院はリハビリテーション病院であり、リハビリに重きを置いていることもあって、そのおばあさんもいつもゆっくりとながら一生懸命に自力でタイヤをまわしています。
それがリハビリですからね。
食事の時間になると、そのおばあさんはいつものようにゆっくりゆっくり車いすで食堂に向かっていきます。
時間もかかってしまうため、食事の席につくのも一番最後。
そんな姿をみるとつい手助けしたくなってしまい、車いすを押してあげることもしばしば。
ですが、看護師や病棟のスタッフにそんなところを見つかってしまうと、「手伝ってはダメですよ!」と必ず注意されていました(苦笑
「情けは人の為ならず」ですね・・・(ただし、誤用の意味の方)
まずは自力で動く。
それでも本当に困ったとき、人に頼る。
そんな当たり前ですがとても大切な原則を身をもって学べたのですから、やっぱり(障害をもったことに)意味があったのだと思っています。
2018年9月30日
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